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4月21日(土)徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー(5:30~10:50)
『極貧生活!松山千春少年がフォークの神様と出逢った日』
拝聴可能な方は、是非聴いてみてください。
by よしくん
おはようございます。
三浦夫妻長男…旅立ちカバーで、ソロデビューらしいですね。
投稿: KAME | 2012年4月20日 (金) 08時50分
>KAME さん 8月1日ソロデビュー『旅立ち/季節の中で』 へぇ~~~
投稿: よしくん | 2012年4月20日 (金) 10時13分
極貧生活!松山千春少年がフォークの神様と出逢った日
フォークシンガーとして、常に第一線を走り続けてる松山千春さんは、今は35周年記念ツアーの真っ最中で全国を駈け廻っている。 デビューした1977年というのは、オイルショックの不況を引きずって、日本が混とんとしていた時代だった。 音楽の世界では、当時22歳の青年、松山千春の歌いあげるメッセージに心をつかまれました。
松山千春さんの生誕の地は、北海道足寄郡足寄町 現在の足寄町の人口は、約7,500人、1955年当時は、約18,000人。 足寄駅から歩いて5分くらいの所に、千春さんのお父さんである明さんが経営する『とかち新聞社』がありました。 住居と仕事場が一つどころにある、新聞社と呼ぶにはあまりにも小さなたたずまいだった。 この場所こそが、1955年12月16日、松山千春が産声を上げた場所である。
生まれた時の千春さんは、大変体が弱かった。 8ヶ月の早産。しかも股関節を脱臼していた。 保育器の中で高熱にうなされている赤ちゃんを見て、お医者さんも『これは無理かもしれない』と、つぶやいたそうです。 この10ヵ月前に、松山家は、当時3歳だった長男『ちあき』さんを突然の病で失っていた。 両親は、今度こそ無事に元気で育ってほしいと祈り続けた。 保育器の赤ん坊に『千春』と命名した。 冬季オリンピックのスキー競技で活躍していた『猪谷千春』選手にあやかって付けた名前だそうです。 やがて、両親の思いが奇跡を呼ぶ。 保育器の赤ちゃんは、徐々に元気を取り戻し、赤ちゃんは千の春を集めたかのように可愛くて明るい声を響かせるようになった。
半年に及んだ入院生活で、松山家は大変な借金を抱えこんだ。 新聞社と名は付いているものの、地元のローカル新聞です。 発行部数は、500~600部にすぎません。 その稼ぎで生計を立てるのはやっとのことです。 『うちが貧しいのは、僕が赤ちゃんの時に病気をしたからだ』 小学生の千春少年は、自分を責めると同時に、家計を助けようと働きました。 大きな籠を二つ担いで、1個売れれば1円の儲けとなる卵や納豆を売り歩き、新聞配達にも精を出しました。
そんな松山少年は、小学校5年生の時に、湯原良生さんという友人と出逢う。 良生さんの聴かせてもらったレコードが、フォークの神様、岡林信康さんの『くそくらえ節』や『山谷ブルース』。 良生さんのお兄さんからギターを借りて、岡林信康さんの曲を練習した。 岡林信康さんとの出逢いが、小学校5年生の秋に訪れた。 岡林さんが、足寄で弾き語りのコンサートを行いました。 <千春さんのコメント> 『俺は、ガキの頃、小学校の時ですね、フォークソングに出逢いました。 岡林信康、高田渡、実に新鮮でした。 それまで、歌謡曲、演歌は、それはそれで聴いてましたから、しかし、こんなに、メッセージ色の強いフォークソングに、めぐり会えて、貧乏暮らしだった松山少年は、感激して以来、フォークにのめりこんで行きました。 自分が小学校、5年の時かな、フォークの神様、岡林信康が、足寄の公民館で、コンサートをやってくれました。 自分は当然金が無いんで、会場に入ることは出来なかったです。 それでも、ボロな公民館ですから、窓に耳をくっつけながら、”あぁフォークソングっていいな” みんなはよく、”余計な事をベラベラしゃべらないで、歌だけ歌ってりゃいいんだよ、 政治の話だとか、鈴木宗男なんかと付き合ってもしょうがないだろう…” おっしゃる通りです。 しかし、自分の人生が、一日一日が、自分に歌を作らせ、歌わせるんです。 我々の歌から、メッセージが無くなったら、歌謡曲、演歌、J-POPと、なんら変わりはありません。』 チケットを購入するお金が無く、足寄公民館の窓に耳をつけて聴いた、フォークの神様、岡林信康さんとの出逢いこそが、松山千春さんに強力なメッセージを残し、フォークシンガーへの道を歩み出すきっかけを与えた。 それから時は流れ、1975年、全国フォーク音楽祭北海道大会で、今は亡き恩師である、STVラジオの竹田健二ディレクターと運命的に出逢う。 そして、1977年1月25日に『旅立ち』でデビューをはたした。
♪旅立ち(松山千春)
当時、紅白歌のベストテンと言う番組で、全国の系列局から寄せられる今週のヒットチャートが送られてくるが、全国、ほとんど1位がピンクレディー、ところが、北海道のSTVから届くヒットチャートだけが、ピンクレディーが2位、1位が松山千春さんの『旅立ち』だった。 『旅立ち』松山千春、これは他の局では、トップ10にも入っていなかった。 STVだけが第1位だった。 そんな事が、昨日のように思い浮かびます。。。
投稿: よしくん | 2012年4月21日 (土) 12時18分
情報ありがとうございます 聞く事ができました
一人目の百恵・友和夫妻の話の時 『♪季節の中で」がながされてました
千春さんの話に入る時に 「良生ちゃんとポプラ並木」が聞こえて 意外でした。
今後もよろしくです。
投稿: りく | 2012年4月21日 (土) 12時52分
>りく さん 僕も聴けて良かったです。
kotoさん情報ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: よしくん | 2012年4月21日 (土) 14時43分
よしくん(*´ェ`*) この場をありがとうございます。
以前の・・・ 「keyHoleTV」おかげさまで聴けるようになりましたよ!
投稿: ami | 2012年4月21日 (土) 17時48分
>ami さん それがあると、ほとんどのラジオが聴けますよね(^_^)v
投稿: よしくん | 2012年4月21日 (土) 17時50分
はじめまして。いつも拝見させていただいてます。ニッポン放送のラジオ入らなくて聴けませんでした。よしくんさんの書き起こしがたよりです。恩師のところで終わっていますが続きはないのでしょうか?あれば知りたいです。よろしくお願いいたします
投稿: T・M | 2012年4月22日 (日) 15時40分
>T・M さん はじめまして。 コメントありがとうございます。 竹田さんと出逢って、『旅立ち』でデビュー。 曲がかかり、徳光さんの話で終了です。 千春さんのコメント以外は、全て徳光さんの語りでした。 これは、コーナーはほぼ完全コピーでの書き起こしです。
投稿: よしくん | 2012年4月22日 (日) 15時51分
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おはようございます。
三浦夫妻長男…旅立ちカバーで、ソロデビューらしいですね。
投稿: KAME | 2012年4月20日 (金) 08時50分
>KAME さん
8月1日ソロデビュー『旅立ち/季節の中で』
へぇ~~~
投稿: よしくん | 2012年4月20日 (金) 10時13分
極貧生活!松山千春少年がフォークの神様と出逢った日
フォークシンガーとして、常に第一線を走り続けてる松山千春さんは、今は35周年記念ツアーの真っ最中で全国を駈け廻っている。
デビューした1977年というのは、オイルショックの不況を引きずって、日本が混とんとしていた時代だった。
音楽の世界では、当時22歳の青年、松山千春の歌いあげるメッセージに心をつかまれました。
松山千春さんの生誕の地は、北海道足寄郡足寄町
現在の足寄町の人口は、約7,500人、1955年当時は、約18,000人。
足寄駅から歩いて5分くらいの所に、千春さんのお父さんである明さんが経営する『とかち新聞社』がありました。
住居と仕事場が一つどころにある、新聞社と呼ぶにはあまりにも小さなたたずまいだった。
この場所こそが、1955年12月16日、松山千春が産声を上げた場所である。
生まれた時の千春さんは、大変体が弱かった。
8ヶ月の早産。しかも股関節を脱臼していた。
保育器の中で高熱にうなされている赤ちゃんを見て、お医者さんも『これは無理かもしれない』と、つぶやいたそうです。
この10ヵ月前に、松山家は、当時3歳だった長男『ちあき』さんを突然の病で失っていた。
両親は、今度こそ無事に元気で育ってほしいと祈り続けた。
保育器の赤ん坊に『千春』と命名した。
冬季オリンピックのスキー競技で活躍していた『猪谷千春』選手にあやかって付けた名前だそうです。
やがて、両親の思いが奇跡を呼ぶ。
保育器の赤ちゃんは、徐々に元気を取り戻し、赤ちゃんは千の春を集めたかのように可愛くて明るい声を響かせるようになった。
半年に及んだ入院生活で、松山家は大変な借金を抱えこんだ。
新聞社と名は付いているものの、地元のローカル新聞です。
発行部数は、500~600部にすぎません。
その稼ぎで生計を立てるのはやっとのことです。
『うちが貧しいのは、僕が赤ちゃんの時に病気をしたからだ』
小学生の千春少年は、自分を責めると同時に、家計を助けようと働きました。
大きな籠を二つ担いで、1個売れれば1円の儲けとなる卵や納豆を売り歩き、新聞配達にも精を出しました。
そんな松山少年は、小学校5年生の時に、湯原良生さんという友人と出逢う。
良生さんの聴かせてもらったレコードが、フォークの神様、岡林信康さんの『くそくらえ節』や『山谷ブルース』。
良生さんのお兄さんからギターを借りて、岡林信康さんの曲を練習した。
岡林信康さんとの出逢いが、小学校5年生の秋に訪れた。
岡林さんが、足寄で弾き語りのコンサートを行いました。
<千春さんのコメント>
『俺は、ガキの頃、小学校の時ですね、フォークソングに出逢いました。
岡林信康、高田渡、実に新鮮でした。
それまで、歌謡曲、演歌は、それはそれで聴いてましたから、しかし、こんなに、メッセージ色の強いフォークソングに、めぐり会えて、貧乏暮らしだった松山少年は、感激して以来、フォークにのめりこんで行きました。
自分が小学校、5年の時かな、フォークの神様、岡林信康が、足寄の公民館で、コンサートをやってくれました。
自分は当然金が無いんで、会場に入ることは出来なかったです。
それでも、ボロな公民館ですから、窓に耳をくっつけながら、”あぁフォークソングっていいな”
みんなはよく、”余計な事をベラベラしゃべらないで、歌だけ歌ってりゃいいんだよ、
政治の話だとか、鈴木宗男なんかと付き合ってもしょうがないだろう…”
おっしゃる通りです。
しかし、自分の人生が、一日一日が、自分に歌を作らせ、歌わせるんです。
我々の歌から、メッセージが無くなったら、歌謡曲、演歌、J-POPと、なんら変わりはありません。』
チケットを購入するお金が無く、足寄公民館の窓に耳をつけて聴いた、フォークの神様、岡林信康さんとの出逢いこそが、松山千春さんに強力なメッセージを残し、フォークシンガーへの道を歩み出すきっかけを与えた。
それから時は流れ、1975年、全国フォーク音楽祭北海道大会で、今は亡き恩師である、STVラジオの竹田健二ディレクターと運命的に出逢う。
そして、1977年1月25日に『旅立ち』でデビューをはたした。
♪旅立ち(松山千春)
当時、紅白歌のベストテンと言う番組で、全国の系列局から寄せられる今週のヒットチャートが送られてくるが、全国、ほとんど1位がピンクレディー、ところが、北海道のSTVから届くヒットチャートだけが、ピンクレディーが2位、1位が松山千春さんの『旅立ち』だった。
『旅立ち』松山千春、これは他の局では、トップ10にも入っていなかった。
STVだけが第1位だった。
そんな事が、昨日のように思い浮かびます。。。
投稿: よしくん | 2012年4月21日 (土) 12時18分
情報ありがとうございます
聞く事ができました
一人目の百恵・友和夫妻の話の時
『♪季節の中で」がながされてました
千春さんの話に入る時に
「良生ちゃんとポプラ並木」が聞こえて
意外でした。
今後もよろしくです。
投稿: りく | 2012年4月21日 (土) 12時52分
>りく さん
僕も聴けて良かったです。
kotoさん情報ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: よしくん | 2012年4月21日 (土) 14時43分
よしくん(*´ェ`*)
この場をありがとうございます。
以前の・・・
「keyHoleTV」おかげさまで聴けるようになりましたよ!
投稿: ami | 2012年4月21日 (土) 17時48分
>ami さん
それがあると、ほとんどのラジオが聴けますよね(^_^)v
投稿: よしくん | 2012年4月21日 (土) 17時50分
はじめまして。いつも拝見させていただいてます。ニッポン放送のラジオ入らなくて聴けませんでした。よしくんさんの書き起こしがたよりです。恩師のところで終わっていますが続きはないのでしょうか?あれば知りたいです。よろしくお願いいたします
投稿: T・M | 2012年4月22日 (日) 15時40分
>T・M さん
はじめまして。
コメントありがとうございます。
竹田さんと出逢って、『旅立ち』でデビュー。
曲がかかり、徳光さんの話で終了です。
千春さんのコメント以外は、全て徳光さんの語りでした。
これは、コーナーはほぼ完全コピーでの書き起こしです。
投稿: よしくん | 2012年4月22日 (日) 15時51分